究極を求める【田中将大】
【Sportiva 8】”すべてはJAPANから教わった”を読みました。
今日は田中君が語る言葉からわたし自身が感じたことです。
(なので、ネタばれはほんの少しです^^)
表紙にあるそうそうたるメンバーの中の名前が誇らしい♪
究極というものがどこにあるのか、ということを考えます。
高い山を目指すなら登ればいいでしょう。それはそこに見えるから。
でも究極というものは、それがどういうものなのか、
どこにあるのか、どうすれば掴むことができるのか、
それすら自らで探さなければならないものなのだと思うのですね。
一つ一つの究極は、今の自分から遠くに向かうものなのかも知れません。
そうやってパーツを分けて考えたときには、それは案外見つけやすいものです。
でも、様々な要素が混在している大概の事にとって、それは容易ではないのですね。
わたし自身の今を考えた時にも、
強さも弱さも、敏感さも鈍感さも、速さも緩さも、賢さも愚かさも、
そのほか相反するものすべてが、重要なことなのだと思うのですから。
積み重ねれば得られるものでもない。
歩き続ければ到達できるものでもない。
例えればそれは虹のようなものです。
そこにあると思って歩を進めてみても、
たどり着いた時にはまた、遥かかなたに見えるのです。
田中君の言葉の中にひとつのヒントがありました。
「どんなことでも“~しすぎ”というのはダメですよね。」
美しい音色を奏でる楽器の弦は、張り過ぎず緩過ぎず、
ちょうどよい加減に張ることが肝心だということは、
たしか仏教の教えの中にもあったはずです。
「ピッチャーに求められる要素のすべてで究極を求めたい」
究極も完璧も、決してそこに至ることのできないとされる場所。
ただ誰よりもそこに近づこうとする、最高の追究者となることはできるのですよね。
スポルティーバのなかの田中君の言葉を受けとめることによって、
自己の世界を探検することになったわたしは、
またひとつ曖昧だったものについて問い直し、自分なりの解を探ることができました^^
それはひとつの追求の形であり、
そしてそれもまた追いかける虹のように、いつか問い直さなければならないことです。
スポルティーバ8に登場するサムライたち、その全ての物語に異なる価値がある。
WBCを思い出しながら、時間をかけてゆっくりと読みたいと思う一冊です♪
今日は田中君が語る言葉からわたし自身が感じたことです。
(なので、ネタばれはほんの少しです^^)
表紙にあるそうそうたるメンバーの中の名前が誇らしい♪
究極というものがどこにあるのか、ということを考えます。
高い山を目指すなら登ればいいでしょう。それはそこに見えるから。
でも究極というものは、それがどういうものなのか、
どこにあるのか、どうすれば掴むことができるのか、
それすら自らで探さなければならないものなのだと思うのですね。
一つ一つの究極は、今の自分から遠くに向かうものなのかも知れません。
そうやってパーツを分けて考えたときには、それは案外見つけやすいものです。
でも、様々な要素が混在している大概の事にとって、それは容易ではないのですね。
わたし自身の今を考えた時にも、
強さも弱さも、敏感さも鈍感さも、速さも緩さも、賢さも愚かさも、
そのほか相反するものすべてが、重要なことなのだと思うのですから。
積み重ねれば得られるものでもない。
歩き続ければ到達できるものでもない。
例えればそれは虹のようなものです。
そこにあると思って歩を進めてみても、
たどり着いた時にはまた、遥かかなたに見えるのです。
田中君の言葉の中にひとつのヒントがありました。
「どんなことでも“~しすぎ”というのはダメですよね。」
美しい音色を奏でる楽器の弦は、張り過ぎず緩過ぎず、
ちょうどよい加減に張ることが肝心だということは、
たしか仏教の教えの中にもあったはずです。
「ピッチャーに求められる要素のすべてで究極を求めたい」
究極も完璧も、決してそこに至ることのできないとされる場所。
ただ誰よりもそこに近づこうとする、最高の追究者となることはできるのですよね。
スポルティーバのなかの田中君の言葉を受けとめることによって、
自己の世界を探検することになったわたしは、
またひとつ曖昧だったものについて問い直し、自分なりの解を探ることができました^^
それはひとつの追求の形であり、
そしてそれもまた追いかける虹のように、いつか問い直さなければならないことです。
スポルティーバ8に登場するサムライたち、その全ての物語に異なる価値がある。
WBCを思い出しながら、時間をかけてゆっくりと読みたいと思う一冊です♪

この記事へのコメント